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藤原道長から幸せについて考える

人生

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば
(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」)

誰もがご存知の藤原道長が、その栄華を誇った歌である。

最高に幸せな気持ちだっただろう。
私には想像もできない境地だ。

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藤原道長と私たちのどちらが豊かな生活を送っているか

ただ、冷静に考えてほしい。
実際のところ、藤原道長と、現代に生きる私たちはどちらが豊かな生活を送っているだろうか。

サイゼリアのミラノ風ドリアを例に考えてみよう。
私たちは300円を払えば、ミラノ風ドリアを食すことができる。

仮に、藤原道長がミラノ風ドリアを献上され、食べたらどう感じるだろうか。
驚天動地、空前絶後、前代未聞、、、衝撃の味だ。きっと、その美味しさに荘園の一つや二つ差し出すに違いない。

もう一つ、トイレのウォシュレットを例に考えてみる。

藤原道長のトイレ事情はよく知らないが、さぞ大変だっただろう。
一方、私たちは、当たり前にトイレのウォシュレットの恩恵を受け、お尻に優しく、清潔を保つことができている。

客観的に見れば、藤原道長よりも現代に生きる私たちの方が、豊かな生活を送っている。

それでも、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」なんて思えることはないし、むしろ生きづらさを感じることさえあるくらいだ。

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逆もまた然り。

月にちなんで、前澤友作さんの月旅行を例に挙げてみる。

今の時代、月旅行なんて夢のまた夢だ。数千億円という資産を持っている前澤さんレベルの方でようやく、実現できることなのだ。

でも、数百年後の世界では、もしかしたら月旅行は、今で言う箱根旅行くらいの一般的なレジャーになっているかもしれない。

「毎年、月ばっかりだったからなぁ。。。今年の盆休みは、パァ〜っと”太陽系外”旅行でも行くか!」なんて、どこかのお父さんが張り切っている未来があるかもしれない。

今の時代、月に行っちゃう前澤さんをしょぼいなんて思う人はいないけれど、未来の人からしたら、前澤さんの生活も随分としょぼいのかもしれない

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ミラノ風ドリアの美味しさを噛み締める

人は、他者と比べて幸せを感じる性質がある。

ミラノ風ドリアを食べられない、ウォシュレットも使えない藤原道長が、「望月の 欠けたる ことも なし」なんて思ったのは、その当時の周りの人間と自分を比べて、自分が優れていたからに他ならない。

私は、人と比べて幸せを感じるのは虚しいと思っている。

ミラノ風ドリアを食べて、その美味しさに素直に喜びを感じ、ウォシュレットで尻を洗う度にその快適さに感謝する、、、その方がよっぽど豊かな精神ではないだろうか。

夜空を見上げて満月だったら、この話を思い出してほしい。
そして、「ミラノ風ドリア、食べられて幸せだなぁ。」と噛み締めてほしい。

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