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「人はなぜ働くのか。」は現実逃避?

人生
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壮大な悩みは現実逃避

私は壮大な悩みをよく持つ。

「人はなぜ生きるのか。」とか、「人はなぜ働くのか。」とか、「人はなぜ家族を持つのか。」
といった類の、答えがあるのかも分からない大きなテーマだ。

自省を込めて、この壮大な悩みを持つ傾向を分析してみると、一種の現実逃避であることが多かった。

「人はなぜ働くのか。」を悩むときを例に考えてみる。
実際は、「締切間に合わなくて怒られるな。。。」とか「上司への説明だるいなぁ。。。」といった具体的な悩みなのに、それを「人はなぜ働くのか。」という壮大な悩みに置き換えるのである。

具体的な悩みに真正面から向き合うのはつらいから、できれば蓋をしておきたい。
でも、心の中に残っているモヤモヤを何かに発散したい。
そういうときに、壮大な悩みは便利なのだ。
具体的な悩みに本当は目を背けているのに、向き合っている気になれるからである。

「木を見て森を見ず」の逆、「森を見て木を見ず」と言ったところだろう。
本当の問題は、木が腐っていること(具体的な悩み)なのに、森全体のこと(労働そのものの意味)を論じているのだ。

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目指すべきは嫌な仕事からの解放

口癖のように、「人はなぜ働くのか。」と問うてきた自分への反省として、
壮大な悩みを持つことは現実逃避的な側面があることを自覚する必要があると思った。

「働きたくない。」この魂からの叫びを実現するためには、泥臭く具体的な行動を取っていかなければいけない。
形而上学的に労働の意味を問うばかりでは、苦役から解放されることはない。

私が目指しているのは、嫌な仕事からの解放であって、「人はなぜ働くのか」という形而上学的な問いの解決ではないからだ。

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現実逃避は負の側面ばかりか?

他方で、壮大な悩みが持つ現実逃避という性質は負の側面ばかりではないだろう。

現実逃避は悪いこととして語られることが多いが、自分自身を守る手段でもある。
悩み事に正面から向き合いすぎて、苦しみのあまり精神を病んでしまうくらいだったら、現実逃避して心の安定を保った方がよっぽどマシだろう。

仕事で疲弊した帰り道、仕事の足音が聞こえてくる日曜日の夕方、夫婦喧嘩をして眠れない夜、、、
私はこれからも、壮大な悩みに逃げ込むことが多々あるだろう。

現実逃避しながらも、現実にも向き合う。
やっていくしかない。

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